連載:なぜヘッジファンドの手の内は「丸見え」なのか?第1回「”自由の国”が世界有数の秘密国家だった時代」

連載:なぜヘッジファンドの手の内は丸見えなのか? 第1回「自由の国」が世界有数の秘密国家だった時代

アメリカの先物市場では毎週金曜日、ヘッジファンドや大手銀行がどんなポジションを持っているかが、無料で公開されています。

COTレポートと呼ばれるこのデータ。個人投資家なら、だれでもアクセスできます。

でも、ちょっと不思議じゃないですか。

なぜ、大口投資家の手の内を、政府がわざわざ公開するのか。彼らが嫌がらないのか。そもそも、そんな制度がどうやって生まれたのか。

この問いに答えるには、意外なところから話を始める必要があります。

投資の話ではありません。冷戦の話です。

 

「自由の国」の裏の顔

アメリカと聞くと、多くの人は「自由」「オープン」「透明性」といったイメージを持つんじゃないでしょうか。

じつは、ほんの数十年前まで、まったく逆でした。

1947年、アメリカは国家安全保障法をつくり、CIA(中央情報局)を立ち上げます。目的は、ソ連を中心とした共産主義への対抗です。冷戦が始まったばかりの時期でした。

ここまでは、歴史の教科書にも載っている話です。

問題は、その2年後に起きたことです。

1949年、議会はCIA法を成立させました。この法律がなにをしたかというと、CIAを議会の監視から、ほぼ完全に免除したんです。

ちょっと想像してみてください。日本でいえば、内閣情報調査室が「国会の質問に答えなくてもいい」「予算の使いみちを説明しなくてもいい」という法律で守られている状態です。

しかも、それが合法的に成立していた。

 

「隠す文化」が制度になった瞬間

1951年、トルーマン大統領は大統領令10290号を出します。

これが、アメリカの現代的な機密の分類制度の始まりです。機密(Confidential)、極秘(Secret)、最高機密(Top Secret)という三段階の分類が決められ、情報のあつかい方が、すべての政府機関に適用されました。

冷戦という背景が、この制度を加速させました。

ソ連のスパイ事件があいつぎ、核兵器の技術が最重要の機密となり、共産主義の浸透をふせぐためには、とにかく情報を隠す必要がある──そう信じられていたんです。

「迷ったら機密にしろ」。それが合言葉のようになりました。

 

どれだけ過剰だったか。

1956年、アメリカ国防総省みずからが、機密文書の90%は公開しても国の安全に害はないと見積もっています。

アメリカ国防総省が認めた、隠す必要のなかった機密文書の割合:90%

9割です。本来隠す必要のない情報を、隠していた。

さらに1971年には、国防総省で数十年にわたって機密の分類ルールをつくってきたウィリアム・フローレンスという担当官が、議会でこう証言しています。

「機密あつかいされた情報のうち、ほんとうにその分類に値したのは、最大でも5%くらいだった」

 

秘密のかさの下で起きたこと

秘密国家への道 1947-1956 タイムライン

この秘密主義は、たんに書類を金庫にしまっていただけではありません。

CIAは「国の安全を守るため」という名のもとに、ほかの国の政権をひそかに転覆させる工作まで行っていました。1953年のイラン、1954年のグアテマラ。議会にすら報告されない作戦が、世界各地で動いていたんです。

大事なのは、こうした活動が「違法」ではなかったということです。

法律そのものが、秘密をゆるす構造になっていた。隠すことが、制度として認められていた。

この「隠す文化」は、20年以上かけてアメリカの統治のしくみに深く根をおろしていきます。

 

ここで大事なのは、これがだれか特定の人間の悪意で生まれたしくみではない、ということです。

共産主義というリアルな脅威があり、核戦争の恐怖があり、「国を守るためには隠すしかない」と、多くの人が本気で信じていた。善意から始まったシステムが、やがてコントロールできなくなっていく。

そして1970年代、このシステムの限界が一気にあらわになります。

 

次回予告

第2回「秘密が爆発した1974年」では、20年かけて積み上がった秘密主義が、どのように崩壊したのかをお話しします。

ニクソン・ショック、ベトナム戦争、そしてウォーターゲート。これらはひとりの大統領の問題ではなく、時代の構造が生んだ必然でした。そしてその崩壊が、アメリカ史上もっとも大きな「透明性の革命」を引き起こします。

ココスタ

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