なぜイランは「テロ支援国家」と呼ばれるようになったのか?石油と制裁の200年間を振り返ってみる

ついにイラン紛争が勃発しましたね。

ニュースを見ていて、正直なところ「よくわからない」と感じていませんか。私もそうでした。なんとなく「イランは危険な国」という印象はあるけれど、じゃあなぜ?と聞かれると、うまく答えられない。

どうしても日本にいると、入ってくる情報はアメリカ側のものが中心になりがちです。それが悪いわけではないんですが、片方の景色だけで「わかったつもり」になるのは、ちょっと怖いなと思ったんです。

相手はなぜ、ここまで強硬な姿勢をとるのか。どんな経験が、その考え方を作ったのか。

こうした問いを持つことが、いま一番必要なことなんじゃないかという気がしています。

今回は、なぜイランが「テロ支援国家」と呼ばれるようになったのか、石油と制裁の200年間を自分なりにたどってみました。

あくまで個人的なリサーチに基づくものなので、間違いがある可能性も十分あります。「こういう見方もあるのか」くらいの感覚で読んでいただけたら嬉しいです。

なぜイランは「テロ支援国家」と呼ばれるようになったのか ― 石油と制裁の200年史
GEOPOLITICS

なぜイランは「テロ支援国家」と
呼ばれるようになったのか

石油と制裁の200年史
タイトルスライド

「イランは危険な国だ」「テロリストを支援している」。ニュースでよく聞くフレーズです。

でも、ちょっと待ってほしいんです。イランは最初からそういう国だったのでしょうか。実はこの話、200年近くさかのぼると、まったく違う景色が見えてきます。

石油、植民地支配、クーデター、革命、そして制裁。ひとつひとつの出来事がドミノのようにつながっていて、現在のイランの姿はその結果として存在しています。今回は、その「ドミノの最初の一枚」から順番に見ていきたいと思います。


すべての始まり ― イギリスにとってのイランという場所

グレート・ゲーム

19世紀後半のイギリスは、世界最大の帝国でした。

その帝国を経済的に支えていたのがインドです。綿花、紅茶、香辛料、染料。インドからの物資がイギリスの産業と貿易の根幹を支えていて、「大英帝国の王冠の宝石」と呼ばれるほどでした。比喩ではなく、インドを失えば帝国の経済が成り立たないという、文字通りの意味です。

問題は、ロシアでした。

当時のロシア帝国は中央アジアへ南下を続けていて、現在のカザフスタンやウズベキスタンあたりまで勢力を伸ばしていました。もしロシアが陸路でさらに南に進めば、その先にはインドがあります。

地図を広げてみると、ロシアからインドへの陸路のちょうど真ん中にあるのが、ペルシャ(イラン)とアフガニスタンです。

つまりイギリスにとってイランは、最初から「ほしい場所」だったわけではないんですね。「ロシアにここを取られたらインドが危ない」という恐怖が先にあった。イランはインドという宝を守るための「盾」でした。

この覇権争いは「グレート・ゲーム」と呼ばれています。


盾から宝の山へ ― 石油の発見

石油の発見

1901年、イギリス人の探鉱者ウィリアム・ダーシーが、イランの王朝(カージャール朝)から60年間の石油採掘独占権を取得しました。対価はわずかな一時金と、純利益の16%です。

ただ、この「16%」にはからくりがありました。純利益の計算方法をイギリス側が完全にコントロールしていて、しかもイランには帳簿すら見せなかった。

たとえるなら、自分の土地で誰かが商売をしていて「売上の一部をあげるよ」と言われたのに、いくら売れたかは永遠に教えてもらえない。そんな状態です。

1908年、ダーシーはイランの砂漠で石油を掘り当てます。これがのちにアングロ・ペルシャン石油会社、現在のBPの前身になりました。

イランは「盾」から「盾であり、宝の山でもある場所」に変わった。イギリスが手放すわけがありません。


チャーチルの決断 ― 石油が国家安全保障になった瞬間

チャーチルの決断

第一次世界大戦の前夜、海軍大臣だったチャーチルが一つの決断を下します。「英国海軍の燃料を石炭から石油に切り替える」というものでした。

背景にはドイツ海軍の急速な拡大がありました。艦隊の速度で優位に立つには、石炭よりもはるかに効率のいい石油が必要だったんです。

1914年、英国政府はアングロ・ペルシャン石油会社の株式51%を取得しました。国家安全保障と石油が、ここで完全に一体化します。

この瞬間から、イランの石油は「ビジネスの話」ではなくなりました。「国家の存亡に関わる話」に格上げされたんです。

第二次世界大戦でヒトラーに対抗できたのも、この石油のおかげだったと言われています。燃料がなければ戦争は成り立ちませんから。


二度目の屈辱 ― 第二次世界大戦中の侵攻

二度目の屈辱

1941年、イギリスとソ連はイランに共同侵攻します。

表向きの理由は「イランがナチスに接近している」というものでしたが、実態はソ連への物資輸送ルートの確保と、石油の支配権維持です。

当時の国王レザー・シャー(パフラヴィー1世)は退位を強いられ、まだ若かった息子のモハンマド・レザー(パフラヴィー2世)が即位させられました。

イラン国民にとって、これは「また外国に王を選ばれた」という屈辱だったはずです。自分たちの国のトップを、自分たちで決められない。この怒りが、のちに爆発することになります。


国民の英雄 ― モサデクという男

モサデク

1951年、イランに一人の首相が誕生しました。モハンマド・モサデクです。

彼の主張はシンプルでした。「イランの石油は、イラン国民のものだ」と。

自分たちの土地から石油が出ているのに、収益のほとんどをイギリスが持っていく。帳簿すら見せてもらえない。しかも戦時中には勝手に国を占領されて、王まで取り替えられた。

そんな状況が何十年も続いていたわけですから、国民がモサデクを熱狂的に支持したのは、ごく自然なことだったと思います。

モサデクは石油を国有化し、アングロ・ペルシャン石油会社を追い出しました。


民主主義が消された日 ― アジャックス作戦

アジャックス作戦

イギリスはモサデクを排除することを決めます。

ただ、直接手を出すわけにはいかない。そこでアメリカのCIAを引き込みました。

面白いのは、最初にイギリスが打診した相手であるトルーマン大統領(民主党)は、これを断っていることです。「民主的に選ばれた指導者を倒すのはまずい」と。

しかし1953年にアイゼンハワー(共和党)が大統領になると、風向きが変わりました。冷戦の緊張が高まっていた時期で、「イランが共産化するかもしれない」という恐怖をイギリスが巧みに利用したんです。

ここが皮肉なんですが、モサデク自身は共産主義者ではありませんでした。むしろ民族主義者で、イランの共産党(トゥーデ党)とも距離を置いていた。でも冷戦というフィルターを通すと、「石油を国有化する=共産主義」という雑な図式に押し込まれてしまったんですね。

作戦名はアジャックス作戦。お金をばらまいてデモを扇動し、軍のクーデターを支援しました。

1953年、モサデクは逮捕されます。そしてモハンマド・レザー・パフラヴィー国王(パフラヴィー2世)が、再び実権を握りました。1941年に外国の都合で据えられた、あの若き国王です。

民主的に選ばれた首相を、外国の諜報機関が金と情報操作で倒した。この事実は、イラン国民の記憶に深く刻まれることになります。


白色革命という名の矛盾

白色革命

パフラヴィー国王の政権は親米・親英でした。石油利権も西側に戻ります。

1963年、国王は「白色革命」と呼ばれる近代化改革を始めました。農地改革、女性参政権、識字率の向上。内容自体は進歩的なものだったんです。

ただ、問題が二つありました。

一つは、改革が「上からの押し付け」だったこと。国民が選んだ方向ではなく、外国に支えられた王が決めた方向に社会を変えようとした。もう一つは、この改革がイスラム聖職者の特権を直撃したことです。宗教界の土地が没収され、聖職者たちの影響力が削がれました。

ここで声を上げたのが、当時まだ無名に近かったホメイニー師です。

彼の動機は、正直に言えば「信仰を守る」というよりも「聖職者階級の権益を守る」という側面が強かったのではないかと思います。土地を奪われ、裁判所の権限を削られ、社会的影響力が急速に縮小していく。その危機感が、最初の原動力だった可能性は高いです。

ただ、話はそこで終わりません。

ホメイニー師は逮捕され、やがてイラクへ追放されます。その亡命生活の中で、彼は15年以上かけて「ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)」という政治理論を練り上げていきました。シンプルに言い換えると、「国家の最高権力はイスラム法学者が持つべきだ」という思想です。

最初は「自分たちの土地と権限を奪うな」という現実的な怒りだったものが、追放という経験を経て、「そもそも西洋的な近代国家という枠組み自体が間違っている」という、もっと大きな構想に発展していった。どこまでが信仰の純粋な発露で、どこからが権力への執着なのかは、たぶん本人の中でもきれいに分けられるものではなかったでしょう。

同時に、秘密警察SAVAKによる弾圧が日常化していきました。進歩的な改革と残酷な弾圧が同居するという、矛盾した26年間が続きます。

1979年の革命の種は、1963年にすでに蒔かれていたわけです。


革命 ― 反米感情を束ねた宗教指導者

イラン革命

1979年1月、パフラヴィー国王がイランを去ります。革命の圧力に耐えられなくなった彼は、エジプト、モロッコ、メキシコなどを転々としました。2月、ホメイニー師が亡命先のフランスから帰国。イスラム共和国が誕生します。

ここで一つ、押さえておきたいことがあります。

ホメイニー師が革命を成功させられたのは、宗教的な求心力だけが理由ではありませんでした。彼は「宗教を守りたい」という自分たちの動機を、「外国の支配から独立する」という国民全体の怒りと巧みに結びつけたんです。

当時のイラン国民は、信仰深いかどうかに関係なく、米英への怒りを共有していました。石油を搾取され、民主的な首相を潰され、秘密警察で弾圧する独裁者を26年間押し付けられた。その巨大な怒りのエネルギーを、ホメイニー師が「反米・反西洋」という旗のもとに束ねた。

「宗教指導者が宗教を守るために革命を起こした」という単純な話ではなく、「国民の反米感情という燃料を、宗教指導者がうまく点火した」という方が、実態に近いのではないかと思います。

26年前のデジャヴ ― 人質事件の「順番」

人質事件

そして同年10月、事態が動きます。

アメリカが「癌の治療のため」という理由で、あの元国王の入国を認めたんです。

ここでイラン国民が思い出したのは、1953年のアジャックス作戦でした。あのクーデターのときも、似たようなことが起きていたからです。モサデクとの権力闘争に一度負けた国王が国外に逃げ、その後CIAの工作で復権して戻ってきた、という流れだった。

だから1979年のイラン国民にとって、「追い出した王をアメリカが受け入れた」というニュースは、26年前とまったく同じパターンの始まりに見えたんですね。「またあの時と同じことをやるつもりだ」と。

癌治療が本当の理由だったかどうかは、正直今でも議論があります。ただ、イラン側からすれば理由なんてどうでもよくて、「あの国王をアメリカが保護している」という事実だけで十分だった。

11月、テヘランのアメリカ大使館が学生たちに占拠されます。444日間にわたる人質事件の始まりです。

学生たちは大使館内からCIAの文書を大量に発見し、「やっぱりアメリカはイランに干渉していた」という確信を強めました。

26年前のクーデターの記憶が、まったく色あせていなかった。それほど深い傷だったということです。


世界が見捨てた8年間 ― イラン・イラク戦争

イラン・イラク戦争

人質事件をきっかけにアメリカは対イラン制裁を始めます。そしてわずか1年後の1980年、イラクのサダム・フセインがイランに侵攻しました。

ここでアメリカは、事実上イラク側を支援します。衛星写真や軍事情報を提供し、フセインが化学兵器を使用したことすら黙認しました。

8年間続いたこの戦争で、イラン側の死者は推定50万人以上です。

国連は効果的に介入しませんでした。イランから見れば、「世界は私たちが毒ガスで殺されても助けてくれなかった」という記憶になります。

この経験が、現在のイランの行動原理の根幹を作りました。「自分たちの身は自分で守るしかない」という信念です。

核開発も、ヒズボラやハマスへの支援も、この文脈を抜きにして理解するのは難しいのではないかと個人的には思います。


制裁の連鎖 ― 追い詰めるほど過激化するパターン

制裁の連鎖

制裁は段階的に強化されていきました。

1979〜80年の人質事件で最初の制裁が発動され、1984年にはイランが「テロ支援国家」に指定されます。2006年以降は核開発問題で国連安保理が制裁決議を採択し、2012年にはEUも石油禁輸に踏み切りました。

2015年、転機が訪れます。イラン核合意(JCPOA)が締結され、制裁が一部緩和されました。対話が実を結んだ瞬間です。

しかし2018年、トランプ政権がこの合意から一方的に離脱し、「最大限の圧力」政策で制裁を再強化しました。

この「合意したのに破られた」という経験の影響は大きかったと思います。イラン国内の穏健派は力を失い、強硬派が勢いづく結果になりました。「対話しても無駄だ」という声に、説得力が生まれてしまったんです。

制裁によって経済は疲弊し、若者に職がなくなり、中産階級が崩壊していきます。そういう環境で力を持つのは、過激な思想を掲げる組織です。


200年のドミノを振り返って

200年のループ

ここまで見てくると、一つのパターンが浮かび上がります。

外部からの干渉 → 国民の屈辱と怒り → 過激な反応 → さらなる制裁 → さらなる過激化。

このループが、200年近くにわたって繰り返されてきたということです。

「テロリストを生んだのは制裁ではなく、制裁を受けた側の選択だ」という意見もあります。それも一つの見方でしょう。でも「追い詰められた国民が過激化するのは、歴史的に繰り返されてきたパターンだ」という見方も、無視はできません。

少なくとも一つ言えるのは、「イランは最初からテロ支援国家だった」という単純な話ではない、ということです。

私たちがニュースで見ている現在のイランは、200年分のドミノが倒れた結果です。

最初の一枚を押したのは誰だったのか。

その問いは、立ち止まって考えてみる価値があるのではないかと思います。

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